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第3章 気づいた想い 第10話 収穫祭の夜会

Author: 春野ケイ
last update publish date: 2026-10-26 19:54:22

王宮の大広間は、天井から吊るされた無数の魔法灯で、昼間のように明るかった。

淡い金色の光が、磨き上げられた床に映り込んでいる。光の粒がゆっくりと降りてきては、人々の肩の上でふっと消える。結界の総責任者が誰なのかを知っているので、私は思わず天井を見上げて、小さく息をついた。きれいだ。ルカの魔法は、昔から優しい色をしている。

「エレナ。よそ見をするな」

隣から、殿下の低い声がした。

「申し訳ございません。灯りがあまりにきれいで」

「……灯りなどどうでもいい」

殿下は私の手を取って、ご自分の腕にしっかりと絡めさせた。今夜はずっとこうだ。広間に入ってから、殿下は一度も私の手を離さない。

重たい青いドレスの裾をさばきながら、私は殿下の歩調に合わせた。銀糸の刺繍が、歩くたびにしゃらしゃらと鳴った。

殿下は、会う人ごとに私を紹介した。

「婚約者のエレナだ」

そう言うたびに、相手の方々は丁寧に礼を返してくださった。それから、ほんの一瞬だけ、私の顔と殿下の顔を見比べる。扇の陰で口元を隠す夫人もいた。

「ヴァレンティ嬢。今夜は、殿下にお教わりになったことは、お休みかしら」

声をかけてきたのは、マルグリット公爵夫人だった。今夜は深い葡萄色のドレスで、白髪に真珠を散らしている。

「公爵夫人。先日はありがとうございました」

「いいえ、こちらこそ。あの日の茶会は、私の長い社交人生でも指折りの楽しさでしたわ」

殿下の腕が、ぴくりと強張った。公爵夫人は気づかないふりをして、優雅に扇を揺らした。

「そのお色も素敵ね。殿下のお見立て?」

「はい。殿下が贈ってくださいました」

「まあ。ずいぶん、はっきりしたお色だこと」

公爵夫人は目を細めて、殿下に向き直った。

「殿下。大切な方は、飾り立てるより、似合うものを着せておあげなさいな」

殿下が何か言い返す前に、公爵夫人はもう人波の中へ消えていた。

最初の曲が始まる少し前、広間の反対側の壁際に、黒い礼服の背の高い姿が見えた。

ルカだった。結界の様子を見回っているのだろう。同僚のフェリクスさんと何か言葉を交わしながら、天井の魔法灯を見上げている。

遠目にも、顔色が白いのがわかった。

「ルカ……」

思わず名前がこぼれた。

その瞬間、殿下が私の腕を強く引いた。

「エレナ」

周りにいた何人かが、こちらを振り向いた。殿下はそれにも構わず、声を張り上げた。

「今夜は、他の男のところへは行かせない。婚約者なら、俺を優先しろ」

しん、と近くの会話が途切れた。

楽団の調弦の音だけが、やけに大きく響いている。

私は殿下を見上げた。殿下は、まるで勝負に勝ったかのような顔をしていた。

「はい、殿下」

私が素直に頷くと、殿下の肩からふっと力が抜けた。

それから私は、ずっと気になっていたことを尋ねた。

「では殿下も、シア様より私を優先なさるのですね?」

殿下の顔から、表情が消えた。

「……何?」

「殿下が先日、婚約者なら俺を優先しろとおっしゃったとき、私は、殿下がシア様より私を優先してくださるときは必ずそうします、とお答えしました。今夜、殿下が私を優先してくださるのなら、私もそういたします」

筋は通っているはずだった。私はただ、殿下の答えを待った。

ちょうどそのとき、人垣をかき分けて、ローレン子爵夫人が駆け寄ってきた。

「殿下! ああ、よかった。シアが、少し気分が悪いと申しておりまして。どうか、お顔を見せてやっていただけませんか」

夫人の後ろの柱の陰に、淡い水色のドレスのシア様が立っているのが見えた。

殿下の喉が、ごくりと動いた。

ローレン夫人を見る。私を見る。周りを取り囲む、貴族たちの視線を見る。

ここでシア様のもとへ行けば、たった今の「俺を優先しろ」が嘘になる。行かなければ、これまでの「当然だ」が嘘になる。

殿下の口が、開いて、閉じた。

もう一度、開いて、閉じた。

どこかで、誰かが小さく咳払いをした。

「お母様」

澄んだ声がした。

柱の陰から出てきたシア様が、母君の腕にそっと手を添えていた。

「私は大丈夫です。少し人に酔っただけですから」

「でも、シア」

「本当に、大丈夫なの。……殿下」

シア様は殿下に向かって、静かに、深く礼をした。

「どうぞ今夜は、エレナ様のお傍にいらしてくださいませ。いつも私のために、エレナ様とのお時間を割いていただいて、申し訳なく思っておりました」

広間のあちこちで、さざ波のようなささやき声が起こった。

「ローレン嬢ご本人が、ああおっしゃるなんて」

「では、殿下はいったい誰のために……」

殿下の顔が、さっと赤くなった。それから、見る見るうちに白くなった。いつかの茶会で見たのと、同じ色の変わり方だった。

「……少し、外の空気を吸ってくる」

絞り出すようにそう言って、殿下は私の腕をほどいた。そして、私のほうも、シア様のほうも振り返らずに、ひとりでテラスの扉へ向かって歩いていかれた。

結局、殿下は誰のことも優先なさらなかった。

私は少し考えて、首を傾げた。こういう場合は、どうしたらいいのだろう。王子妃教育では、まだ習っていない。

「エレナ様」

シア様が、私の隣にそっと並んだ。

「ごめんなさい。勝手なことを言って」

「いいえ。シア様、お加減は本当に大丈夫なのですか」

「ええ。今日は朝から、とても調子がいいの。……母が、殿下をお呼びしたかっただけなんです」

シア様は申し訳なさそうに目を伏せて、それから小さく笑った。

「でも、少しすっきりしました」

広間の上座のほうに目を向けると、玉座の隣で、王妃様がこちらをご覧になっていた。扇を口元に当てて、表情は読めない。けれど、確かに今のやりとりを、最初から最後まで見ていらしたようだった。

楽団が、最初の曲を奏ではじめた。

人々が踊りの輪をつくりはじめる中、私はもう一度、広間の反対側の壁際を探した。

ルカは、まだそこにいた。

フェリクスさんの肩に手をついて、もう片方の手で胸元を押さえている。

天井の魔法灯が、ひとつ、ふっと瞬いて消えた。

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